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個人というアイデンティティ(国家と個人の関係)

店が休みなのだが、やることがたくさんあるにはあるのだが、気持ち的にはバカンス状態である。 つまり、ついどうでもいいようなことを考えてしまっている。 「うしろめたさの人類学」(松村圭一郎著)ミシマ社を読んでいると、本当におもしろい。

ここに書かれていたことで、私達個人のアイデンティティはそもそも最初からあるわけではないことに気付かされる。 ここで例に出されているエチオピアでは、子供が生まれるとする。 すると祖父は◯◯部族の出身であるから、生まれた孫を「ドゥカモ」と呼ぶ。でも、母親はそんな名前は嫌だと「アジャイボ」と呼ぶ。父親はまた別の名前で子供を呼ぶ。こうして複数の名前が同時に存在し続ける。そして大人になれば、また別の名前になり、その成人名が尊称となるが、家族や親戚は幼名が使われる。

つまり、個人を特定するのは一つの名前ではない。アイデンティティと名前は同一ではないということだ。 われわれ日本ではどうか? 生まれると同時に、親は役所に子供の名前を届け出ることで国の管理下(保護下ともいう)に入るわけだ。そして、幼稚園〜小学校〜中学校〜高校〜大学〜社会人へと進む中で必ず一つの名前を記入し続ける

それをおかしなことだと疑ったことなど、おそらく一度もないだろう。 どっちがいいとか悪いとかではないが、エチオピアのように自分の都合のいい名前でパスポートが作れてしまう国と、日本のような国とでは国と個人との関係性が全く番うということであり、アイデンティティに関してはエチオピアのほうが自由であるということだ。 いずれにしても、我々日本人のアイデンティティというものは、本来持っているものではなくて名前によって形作られるものなのだ。言い換えれば国家によって形作られるのだ。 そこで私達が多少なりとも国家との関係性の中で自由になろうとしたら、どうしたらいいのだろうか? 暇人は妄想した。 こんなのはどうだろう? 朝起きたとしよう。「昨日の落語【粗忽の使者】おもろかったなぁ。よし、今日は地武太治部右衛門(じぶたじぶえもん)にしよう」って、今日一日は会社に行っても名札に【地武太治部右衛門】って書いて、みんながそう呼ぶ。 若い女性事務員が「地武太氏、この書類に印鑑をお願いします」とかね。 医者に行けば、順番が回ってきたら「じぶたさ〜〜ん、じぶたじぶえもんさ〜〜〜ん。診察室にお入りくださ〜〜い。」 もう、その日は一日中地武太治部右衛門なのである。 みんなが遊びながらこれをやることで、国家へのささやかな反逆ができる。

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